殻の中の夢(3)

     ◇  ◇  ◇

   コツコツ  コツ

 ――またあの音がする……

 親鳥が、卵の中で眠る雛の覚醒を促すように殻を叩いているような、優しい音。

 ――――目覚めの………

     ◇  ◇  ◇

 さわさわ…

 頬に枯れた葉っぱが引っかかる。

 「……う…ん?」

 こそばゆい木葉の感触がルイードの沈んだ意識を揺らした。微かに睫毛を震わせた後、ゆっくりと瞼を開く。木々の合間から零れ落ちる月の柔らかい光が、ルイードの瞳に闇夜に眠る深緑の木々を映し込んだ。

 「木……森?」

 ずきずき痛む頭を抱えてゆっくりと起きあがったルイードは周囲を見渡して呟いた。意識にまとわりつく霧を払うようにニ・三度頭を振ってみてから、途切れた記憶を手繰り寄せる為に目を閉じて時をさかのぼる。

 ――確かレイトと一緒に森から帰るところだったよな。そして街の灯を見つけて……

 「そうだ!足を滑らせて森の崖から落ちたんだ」

 今度こそはっきりと目が覚めた。

 首を擡げてみると蔦の茂る崖が面前に立ちふさがっている。数メートル上方であろうか、崖の向こうには星の瞬く群青の空を微かに覗き見る事が出来た。

 「あそこから落ちたんだな。…どうにか登れないかな」

 傾斜はきついが、落ち着いて見てみれば自分が滑り落ちた距離はたいしたものでは無いらしい。どうやら崖の途中の窪地に引っかかって、最後まで滑り落ちずに済んでいた様だった。

 木や蔦が崖上から垂れ降りそこかしこにあるので、何とか這い上がれそうな気配である。

 「これを使って登れば…」

 太く丈夫な蔦を選んで引っ張ていたルイードは、はっと息を呑んだ。

 「――そう…だ。レイト……! あいつはどうしたんだ?」

 ずっと自分を助け続けてくれていた友人の姿が見当たらない。

 額に手をやり、ルイードはレイトに関わる記憶を必死に思い出す。

 ……確か、僕が崖から足を踏み外した時に僕をかばって……

 「まさか!」

 ルイードは蔦を放り投げ、慌てて窪地の縁に走り寄る。覗き込んだ崖下を見て、ルイードは眩暈を覚えた。高い傾斜角の向こうに続く崖は、闇の森に解け込み終わりが見えない。

 ――あそこに落ちたら……!

 さっと血の気が引く。

 「おお〜い……」

 絶望に肩を落としかけたルイードの耳に、聞き覚えのある声が届いた。場違いに呑気な声が。

 「っ! …レイト!?」

 息を呑んで叫び返し、ルイードは張り付くように、崖下に顔を突き出した。

 闇に向けて凝らした瞳が次第に暗順応をし、今まで見えなかった暗がりの映像をうっすらと滲みあがらせる。

 ルイードよりも更に4・5メートルも下であろうか。崖から突き出した岩場の上に赤い服が動いているのが目に映った。

 「ルイード〜、無事だったかぁ?」

 明るくしっかりとした声が下から響き渡ってくる。

 「ば、ばか!自分の心配をしろよ!」

 「はははっ。大丈夫。俺はこのぐらいじゃ参らないさっ」

 暗がりで見えないが、レイトが不適な笑みを浮かべている姿がありありと思い浮かんだ。

 「ま、感動の再会は後にして、どうにかこの崖から上がらないとな。

 うーん。上からつながっている蔦でもあれば登れるんだけど」

 腕を組んで考え込んだレイトの額に、ぽたっと水が零れ落ちる。

 「?」

 雨でもないのに降ってきた水を不思議に思って顔を上げたレイトの目の前に、一本の蔦がするすると降りてきた。

 「ルイードか…? 気が利くじゃん」

 目を凝らして蔦を見あげていくと、上方で微かに人影が揺れた。

 「よし! 

 ルイード。今からお前の所まで上って行くから、しっかり蔦を支えていてくれよ」

 下の影がゆっくりと動き始めると、ルイードの手の中で蔦が軋んだ。慌てて力を入れて蔦を握りなおす。全身の力を使って蔦を引っ張るルイードの額には、何時の間にか大粒の汗が浮かび上がっていた。塩っ辛い水が顎を伝って流れ落ちる。

 「もう少しだからがんばってくれよルイード」

 レイトの声がさっきよりも身近に聞こえた時、思わずルイードの瞳から小さな水の玉が零れ落ち、汗に混じって地面にしみ込んだ。

 「――ルイード…?」

 ちょうどその時、ルイードのいる窪地まで這い上がってきたレイトがルイードの様子に気付いて、不審げに言葉を掛けた。

 ルイードは荒い息の下、思わず地面に座り込む。対照的に、レイトは崖を這い登ってきたにもかかわらず、息の乱れはあまり無い。

 静かに立つレイトの影の下、ルイードは膝を抱え込んで大きな瞳からぽたぽたと涙を流していた。

 「なんだぁ、お前泣いているのか?どうしたんだよ一体。」

 レイトの困ったような声が聞こえてくる。

 返す言葉は無く、流れ続けるルイードの涙だけが乾いた地面に重ねられていった。

 掛ける言葉も思いつかず、戸惑って口をつぐんだレイトの下から小さな声が呟き漏れる。

 「……めん」

 「――ん?」

 顔を上げたルイードは濡れた瞳をレイトに向け、

 「ごめんね」

 今度ははっきりとした声で言った。

 「ごめんって…なにが?」

 「だって、こんな目に遭ったのは、全て僕のせいだから。僕が弱虫で不甲斐ないから…。

 レイトは僕がこの森を出るために付き合ってくれているだけなのに。

 肝心な僕が何も出来ないし、何もして無い。それが情けなくて、悔しくて。……それにまた、僕は逃げ出してしまったんだ」

 ――――前と何ら変わっていない。

 …………前…?

 そうだ。自分は以前にもこうやって逃げた事がある。意気地なしの自分。大きすぎる不安の影に怯えて、あの時も立ち向かわず逃げる事を選んでしまったんだ……!

 それだけ言うとルイードは再び下を向いて黙り込んた。

 沈黙が落ちた森の中に、虫達の静かな鳴き声が響き渡る。

 軽く吹き抜けた風に煽られ木々はさざめき、木の葉の合間を縫って地面に降り立った月からの木洩れ光が、輪を描いている。

 白い光のすじを肩に受けながら黙ってルイードの言葉に耳を傾けていたレイトは、軽く溜息をつくとルイードの額をピンっと軽くはじいた。

 衝撃はたいしたものでは無かったが突然の事。ルイードは驚きで尻餅をつき、目をぱちくりと瞬く。

 そんな仕草を面白そうに見つめていたレイトは、纏わりつく闇の気配を振り払うような明るい声で、

 「俺はそう思わないぜ」

 と言った。

 「…え?」

 思わず聞き返したルイードには答えを返さない。 

 レイトは茶目っ気を持ったウインクをルイードに送ってみせてから、目の前の蔦に手を掛け、唐突に崖を登り始めた。

 「れ、レイト…!」

 ルイードの戸惑いを含んだ声を無視してレイトは一心に崖を上がっていく。呆気に取られるルイードの前で、3メートルほどの崖を、陽介は自力のみで難なく上がりきってしまったのだった。

 ルイードが全身全霊を傾けても看破できるか出来ないかの関門を、レイトは余裕の仕草で突破する。

 「ルイード、登ってこいよ。今度は俺が支えてやるから」

 その時、ルイードは、自分がレイトに対して何の引っ掛かりを持っていたのかに、気付いた。

 ――――嫉妬だ。

 助けてくれる心強い力に頼り、感謝しながら、同時に彼に対してひどく劣等感に苛まれる自分がいる。何事にも立ち向かう強さを持ったレイトに憧れる心の何処かで、暗い嫉妬の炎がちらちらと燃えていた。

 ルイードの視線に気付いたレイトが見つめ返す。明るい視線に見つめられ、ルイードはたまらずに慌てて目を伏せる。

 しかし一瞬交わったルイードの目からレイトは何かを感じ取ってしまったようであった。

 ばつが悪くなったルイードは口をつぐみ、その姿を見つめるレイトはしばし掛けるべき言葉を捜して逡巡するように瞳を宙に巡らせた。そして、

 「ルイード、もしかしてお前は俺が努力もせずにこの崖を上っていたとでも思っているのかい?」

 にやり。

 口元を上げて言ったレイトの言葉を聞いて、ルイードはかっと顔を赤くした。

 しかし次で聞こえてきた言葉は、頭に上った血を一気に冷まさせる。

 「俺は努力した分、報われただけだぜ?」

 ……『努力した分、報われただけだぜ?』

 さらりとレイトの口から出た言葉が頭の中で抑揚を持ってリフレーンする。

 音も無く鉄槌で殴られた気分、だった。

 形のない霧でさえも投打する衝撃…。

 ――そうだ、出来る相手に嫉妬をする前に、僕はまだ何もやっていないじゃないか。

 ――ルイードは黙って蔦をにぎり、垂直に近い角度で切り立つ崖に足を掛けた。山登りの経験など無いルイードである、レイトのように身軽に崖をよじ登る事が出来るはずがなかった。

 足を踏み外しずり落ちながら、かかった時間に比例して進む距離は微々たるものである。しかし、ルイードは短く遠い道のりを黙々と登り続け、苦労をしながらも確かに苦労の分だけ体は確実に足を踏み外した元の道に近づいていくのだった。

 そして手が崖上に届く。グぐっ体を持ち上げるべく腕に力をこめるが、首まで上がった所でどうしてもそれ以上体を持ち上げる事が出来ない。全体重を支える腕が限界を訴えるように震えを大きくしていった。

 額を伝った汗がすぐ目の前の地面に吸い込まれて行く。……後少し、足を付くべき地面はもうすぐ目の前にあるというのに…!

 と、その時、感覚を失い始めたルイードの腕をがしっと掴む手があった。

 暖かい手。

 「――レ、イト…!」

 夜だというのに太陽の光を感じさせる明るい笑顔が目の前にある。――最後は手を貸したレイトが力強くルイードの体を崖の上に引き上げたのだった。

 「おめでとさん。良くがんばったな、ルイード」

 何とか元の場所まで登りきったルイードの息ははすっかり上がってしまっていた。喉はからからで、心臓が破裂するほど高鳴っている。全身に苦しさを送り続けるはずの鼓動は、しかし同時に充足感に満たされた心地よさも与えてくれるように感じられるのだ。

 ……何だろう、この不思議な感情は?

 「さーて、ルイード。じゃあ行こうか」

 「……え?」

 ルイードの呼吸が元に戻り始めたのを見計らったようにレイトは立ち上がった。

 「行くって、何処に?」

 「勿論、俺達の行くべき目的地さ」

 にいっと笑い、あとは後ろも振り返らずに歩き始めてる。

 「お、おい。レイト! 待ってよ…!」

 さっさと歩き出してしまったレイトを呆気に取られて見ていたルイードは、我に返って彼の後を追いかけ始めた。

 行動派のレイトの歩みは速い。更に森の中という平らではない道を追いかけるルイードの足は、なかなかレイトに追いつく事が出来なかった。

 視界を塞ぐ枝葉を払って森の切れ目に飛び出す。闇に慣れたルイードの目に、艶やかな月光が滑り込んでくる。

 眩しさにしかめた目をゆっくりと開いた時、すぐ目の前にレイトの背中を見とめる事が出来たのだった。

 ようやくレイトを面前に捕えることが出来たと思った時には、既に彼は目的地にたどり着いてしまったようである。

 レイトを追いかける事のみに集中していたルイードは、そこでようやく自分がどこに向かっていたのかに気付いた。

 「ここは……」

 ごくり。

 横に立つ大きな木の陰が足もとの自分の影を呑み込むようにして伸びている。

 広く開けた岩場の向こうに見えるのは温かいはずの町の光りであるのに、逆にルイードの胸をひどく締め付ける……。

 ルイードは喉を鳴らしてつばを呑み込み、間断無く続く手の震えを握り込んだ。

 「……レイト。なんでまたここに来たんだ?」

 逃げ出したい衝動を何とか押さえ込んでルイードは震える声音で隣に立つ少年に言った。

 「なんでって、そりゃ、あの先がお前の行かなくちゃならない…帰る場所だろ?」

 「それは…!」

 ――そうだ。あの町の光の中こそが僕の行くべき場所だ。だけど、

 「……だけど僕は……」

 ――怖い。

 だって、あの先に行ったからって僕に明るい未来が開けているとはかぎらないもの

 『…このまま目が醒めても…』

 まるでルイードの恐怖心を糧に得たように、背後の森は濡れ色の葉を振るわせ、一層闇深い影を引き伸ばした。――再びルイードを引き込むかのように――

 「大丈夫だよ」

 背後の闇を気にも留めない明るい笑顔がルイードを降り返った。

 その姿が遠くの町の明りに解け込むようで。

 「レイト……?」

 「お前はちゃんと努力する事が出来る奴じゃないか」

 ルイードは弾かれる様にしてレイトの顔を見た。

 町の光を背にして立つレイトの表情は逆光で良く見えない。が、口元に浮かべられた不敵な笑顔は手に取るように感じられる。

 「あの崖を自分の力で登りきろうと思ってやり遂げたお前なら大丈夫なはずだ。あそこに何が待っていても乗りきる努力が出来る」

  コツコツ……

 「――本当に…大丈夫かな、僕。あの時だってレイトがいたから……」

 覗うようにおずおずとルイードが言うと、心底可笑しそうに笑い声が返って来た。

 「なーに言ってんだか。大丈夫だよ。俺はレイトであってレイトではない」

 「…え?」

 「今の俺はお前の…が生み出した……」

 「?良く聞こえないよレイトっ」

 いつの間にか町の明りはその光度を上げて広がり、森の影をルイードから遠ざける。

 まるで洪水のように押し寄せてきた光りが周囲の音さえもかき消して……

 「レイト!」

 強い光りの向こうでシルエットしか見えなくなった幼なじみに懸命に手を伸ばすが、どうやっても届かない…!

 コツ…ン コツ

 ――頭の奥で何かを打ち付ける音が響き渡る。

 「俺の…こと…は、…自身が生み出…たことば……

 おれは……おま……」

 レイトの姿が光の中に掻き消える瞬間、光を遮る指の間からルイードが見た彼の笑顔は――

 ――――ぼ…く?

                     

             コツコツコツ……殻を叩く音が、君の夢を砕き去る……


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