万象の奇夜




 手の中で 茶の入った椀が 白い湯気を陽炎のように立てている。


小さい陶器の白い椀は、自分の大きな手には酷くたよりなく見えるが、そのざらつく側面からは
心地よいぬくもりが伝い、冷えた身体に安堵を与えてくれている。


 一口 そのぬくもりに口をつけると、僕の奥から小さな空気の塊がポロリと排出された。
ちゃぷ、と揺れる水面に 夜空の星々がたゆたっている。


「砂漠の夜は寒い。 客人、まだ冷え込むから注意するがいい。」


ぱちぱちと燃える小さなともし火に薪をくべながら、正面に座る人物が僕に声を掛けた。
 僕が雇った案内人だ。
火を見下ろすその顔は橙色に染められている。ところどころに深い切り込みのようなしわが影を
落とし、その者が年を老ったものだと物語っている。


「それにしても 一人でこのようなところに来るとは酔狂(すいきょう)な。
一体どこからきなすったのか。」


男が軽く頭をあげ、僕の眼を見た。頭を保護する長めの白い布が、男の顔の左右で揺れる。
ケープのような着易そうなその服と同色。褐色の顔だけが浮いて見える。不思議な衣服だ。
  しかし相手からみても 自分のこのくたくたのズボンとくたびれたシャツ、
そして ぼろぼろの外套という姿はおかしいに違いない。
ちなみに僕の後ろには僕の小さな自動四輪走行機が 男の駱駝の隣で鎮座している。


「僕は ”ナーシサス” から来ました。」

ずずと、お茶をすすりながら僕は答える。―――多分知らないだろうな。
老人は すぅと眼を細め、変な発音でナーシサス、と 呟いた。訝(いぶかし)げな顔をする。


「ここから遥か遠くの土地ですよ。」

僕が旅を始めてどのくらいたったろうか。ふと故郷の姿が頭に浮かぶ。
しかし今はあまり深くは思い出したくない。


ふと言葉が途絶え、ぱちぱちと火が燃える音以外 音はなく
しばし、あたりは天の恒星の青白い光の静寂につつまれた。

砂漠の民人は彼の地のほうを仰ぎ見た。
遠いその空は深い青の群れに支配されている。ただ星がちらちらと小さく瞬いていた。


不意に青い大きな光が天に弧を描いた。


「客人、時間だ。そろそろ始まるぞ。」

案内人が杖によりかかりながらぎこちなく腰をあげた。僕もゆっくりと立ち上がり、砂を払う。





 むこうの砂丘の上で 赤いともし火が、すぅと現れ 高く天を左右にわけた。
   そして その大きな炎を中心に、その周囲で何かがうごめき始める。

   不思議な面と不思議な衣装を纏い、ゆっくりと周囲を回っている。
                                いや、舞っているのだろうか。

   冷ややかな砂漠の中、そこだけが切り取られた空間のように存在していた。

   炎の周りに不思議に色の変化する風が舞っている。

   そしてその背景では たえず 星が降る。




「これが・・・”砂漠の幻夜”・・・。」

僕はこれを求めて来たのだった。この砂漠におこる不思議な夜。

やがて風に乗って 奇妙で 懐かしい 歌が聞こえてくる。

「あれは 忘れられた民と神達だ。そしてあの炎は命。」

「古民と神・・・と 命?」

案内人は前から視線をそらさずに頷いた。


「地で流れた命を 天に返す儀式だ。」

案内人の声が遠くに感じる。
その代わりに古人の歌の声が大きくなっていく。体に何かが入っていく感じだ。
あそこに僕の求めるものがあるのかもしれない・・・・・・


脚を踏み出した僕の肩を、骨ばった細い手が制した。


「いかん。すべては 残像・・・この”砂漠”の”夢”でしかない。
いけば夢にとりこまれてしまうぞ。


強い老人の声が今度はしっかりと耳に響いた。


「・・・かつて飲み込まれて帰ってこなかった奴もおるのだからな。

過去の残像に介入しては決してならんのだ。おまえさんの求めるものはきっとここには
なかろう。」



「砂漠の夢・・・・?」


は、として僕は我に返った。夢は幻でしかすぎない。
僕の求めるものはここにもなかったようだ。




朝。砂漠の明け方はまだ冷気を伴っていた。昨日の薪の跡が目にはいったが、
付き添い人の姿が見えなかった。果たして物盗りだったか・・・・

いや、荷物も取られているようではない。というより、ここには僕一人しか居なかったような
錯覚さえするほどに 他人の気配がなかった。


ふと 街の少年の言葉が 寝ぼけた頭に蘇った。


その昔、 一人の初老の案内人が ある”砂漠の幻夜” に 捕らわれたことがある、と。


そういえば 自分は あの案内人を いつ雇ったのだろうか・・・・・

  
                                     

                                        
背景:トリスの市場